3、導かれて話は進み
繋がる鎖は手の中に
ランプの光に先導されるながら、いくつもの丘を越える。息が少し乱れてきた頃には、もうセーチの家は見えなくなっていた。
「……あれ?」
声を上げたのは暁良だった。
「霧?」
続いて、まひるもそれに気が付く。
一歩足を進めるごとに、三人の周囲がぼやけていく。
それは不思議な光景だった。周囲にあったはずのたくさんの丘、そして夜空が、まるで始めからなかったもののようにかき消えていく。
自分たちも同じように消えてしまうのではないかと、まひると暁良が慌てた様子で自分の手や足を見る。
「大丈夫。夢が、終わったんだ」
感情を見せない声で静かにセーチが呟いた。
彼はランプを持ったまま静かに二人の前に立ち、白い靄の果てを緊張した面持ちで見つめていた。
一度、霧の向こうへ何かを口にしかけて、すぐに噤む。言葉が小さなため息となって、彼の中から吐き出される。
あっさりと肩の力が抜け、彼は二人を振り返った。
「さて、それでは約束通りちょっとヒーローになってもらうよ」
微笑む彼の手にいつの間にか握られていたのは、二本の鎖だった。
錆が浮いているのか、所々変色していて、動かすたびに鳴る音は重い。長い間ここに置かれたままになっていたのだろう。
一体どこから、と、それで何をするんだ、と、どちらの質問を先にしたらいいだろうか。まひるは呆然としているような唖然としているような達観しているような、そんな心境でその鎖と穏やかに微笑むセーチを見上げた。
「……ええと、その鎖とヒーローと僕らが帰ることと、どういう関係があるんですか?」
隣で暁良が聞いた。
まひるも同意見だと、小さく頷いてみせることで示す。
「うん。これはね、この夢の鎖」
と、セーチがそのうちの一本を暁良に渡した。
ずっしりと手に重くののしかかる。冷たいはずの鎖はなぜか肌に馴染む温度で、錆が浮いているところ以外は表面もとてもなめらかだった。
視線を上げて鎖の先を見つめたが、それは三人が今来た方向へと伸び、霧の中へ消えていった。ここまで来た道のどこにこんな鎖があっただろうかと彼は記憶を探るが、それらしいものがあった覚えは全くなかった。
しかめっ面の暁良の隣で、やはりまひるが混乱した表情で首を傾げている。
「夢の鎖って……つまりなんなんですか?」
「なんて言ったらいいのかな。うーん、これが何かというより、君たちが何をするかを話した方がわかりやすいかな。はい、どうぞ」
訪ねたまひるの手に、もう一本の鎖が渡される。
暁良に渡された鎖と同じような鎖だった。違うところと言えば、所々に浮いた錆の模様だけ。やはり重く、不思議と手に馴染む温度で、錆のないところはとてもなめらかな手触りだった。
「それをしっかり握っていて、決して離さないで。本当はきちんと繋いでもらいたいんだけど、それはちょっとイメージ悪いだろうし。――君たちは、その鎖を持ってもとの世界に還ればいい」
「え、帰れるんですか?」
「そうだよ」
ぽかんとして暁良がセーチを見上げる。手の中の鎖が小さな音を立てた。
「でも、どうやって?」
手の中の鎖を見つめていたまひるが、不安そうな声で聞いた。
「簡単さ。このまままっすぐ歩いていけばいい。もう夢の中からは出ているからね。あとは、君たちの還るべき場所へ、君たちの
ここが導いていくれる」
ここ、とセーチは自らの左胸を軽く叩いた。
心臓――心、あるいは魂と呼ばれるもの。
「君たちが還ることで、君たちに引っ張られて、この夢もあるべきところへ――さっきの話で言うならコインの裏側……君たちにとっての夢の世界へと戻れるというわけさ。言っただろう? ここはコインその物から外れてしまった世界だと」
一枚のコイン、その表と裏。
現実と夢。交錯することのない二つが、混ざり合って弾きあって、そして取り残された夢の残骸。
どこかでコインの落ちる音がした。
「……ええと、それじゃあ、私たちは夢の中に帰るんですか?」
帰るべき場所は現実なのに。
まひるの胸に微かに煙草の香りを纏った面影が浮かぶ。
「まあ、まずは夢の中へ、かな。夢へ戻ったら、あとは目覚めればいい。そうすれば君たちの待つ、そして君たちを待っている現実があるはずだ」
暁良の脳裏に悠然と泳ぐ亀の姿がよぎった。そしてその向こうに見馴れた人影が見えた。
ぎゅっと手の中の鎖を握りしめる。
「セーチさんは、どうするんですか?」
「僕? 僕は変わらないよ、ここに居続ける。コインからはみ出してしまった夢はまだまだたくさんあるしね」
セーチは穏やかに微笑む。
静かな微笑みを、悲しいと思った。
「それに僕はね、暁良君。わりとここが気に入って居るんだよ。
ランプ(もいるし」
そういってランプを目の高さまで持ち上げる。心なしか、ランプの色が柔らかいものに変わったような気がした。
「さぁ、そろそろ行った方がいい。だいぶ話し込んでしまったからね、君たちの身体の方が少し心配だ」
セーチの声に二人ははっとする。
そうだ、いつまでもここにいるわけにはいかないのだ。
帰らなければ――ならない。
二人は小さくうなずき合ってセーチに背を向けた。
「大切なのは」
背中から鋭いセーチの声が聞こえた。
「大切なのは、見失わないこと。何が大切で、どうするのが大事で、なにを思うのかが必要かということ。そして」
声が一瞬途切れた。
不安定だった世界が急速に変化し始めた。何かが変わっていく。
風が、二人の間を抜ける。
「誰を想っているかということ」
面影が、よぎる。
瞼の内側。どこよりも深い、心臓の奥底から、思いが溢れるように。
まひるは不意に、何かに追いたてられるように振り返った。
そこにはいびつな形のランプを持ち、静かな佇むセーチがいる。
「一つ、聞いていいですか。どうしてあなたはここに?」
振り返ったとき、セーチはいないかもしれないと思っていた。
けれど彼は、とても彼らしい悲しげな微笑みでそこに立っていた。
見送るように。
名残惜しむように。
「……償わなければならない罪を犯したからさ」
まひるの隣で、暁良もまた振り返った。
「じゃあ、あなたが――」
その先の言葉を言う
術(をまひるも暁良も持っていなかった。
コインの表と裏を。
交わることのない現実と夢を。
決してたがえることのない法則を。
崩そうと壊そうと、変えようと、して。
言葉をなくす二人の前に、セーチと名乗る罪人はその罪を背負いながら、静かに立っていた。
「―――また、会えますか?」
いろんなことを聞こうとして、たくさんの言葉を飲み込んで、ようやく暁良が言った。様々な想いを込めた響きは、とても複雑に白い霧の中でセーチの耳に届いた。
「そうだね、あるいは」
微笑みながら、セーチが黙る。
さわさわと二人をせかすように風が吹いていた。急げ、と心臓の奥深くから何かが叫んでいる。
ためらうようにセーチが俯いた。影になってその表情は見えない。
何かを口にするのを堪えているのだろうか。それとも、感情が溢れそうになるのを恐れているのだろうか。
泣きたいのかもしれない、と二人は思った。
「……君たちは、ここが悲しい場所だと思うかい?」
「いいえ」
すぐにまひるが答える。暁良がその隣で首を横に振っている。
「僕は、大きな罪を犯したけれど、それを止めてもらって……弟に、止めてもらってよかったと思っているけれど、後悔はしていない。決して、悔いてはいないんだよ」
ただ僕はお前と、ごく当たり前の兄弟のように。
風が声にならない声を運んできた。
それは目の前の罪人の嘆きだった。
セーチという男の悲しみだった。
そして弟を思う愛しさだった。
風が伝えてくる感情に、まひるは悲しげに眉をひそめた。
「あなたは、現実の世界が嫌いだったんですか」
セーチが顔を上げる。
まっすぐなまひるの視線と、穏やかな彼の視線が重なる。
張りつめた二人の空気を、透き通った暁良の目が見つめていた。
「……いいや。嫌いでは、なかったよ」
ほっとしたように、二人が笑った。
それにつられて、セーチもまた穏やかな微笑みを浮かべた。今まで見た微笑みよりも翳りが薄れたと思うのは、二人の気のせいではないだろう。
「弟にあったら伝えて欲しい。君たちの夢を渡っているはずだ。――僕は、ここにいると」
「それだけでいいんですか?」
「ああ、弟が僕を許してくれるなら……いつかは会えるさ」
そしていつか。
許されないとはわかっているけど、それでももしも許されるのなら。
今度こそ、ごく当たり前の兄弟のように。
「必ず、伝えます」
会えるかの保障もないけれど、それでも二人は約束をしたかった。
セーチが微笑み返すと、急に周囲を包む霧が濃くなった。駆け抜ける風が強い。
急がなくては。
二人はセーチの家を訪ねたときのように顔を見合わせ、強くうなずき合った。
さっきまで、セーチが立っていた場所に背を向ける。
そして、白い靄の中へ、一歩踏み出した。
手の中の鎖をぎゅっと握りしめる。
大切なのは、
セーチの声が耳に甦る。
遠くで誰かが、ありがとう、と囁いた。
4、終わりはいつも始まり
想いは静かに灯されて
***
――彼の場合
いつからそうしていただろう。
僕は床よりは柔らかい何かに寝かされていて、眼を閉じていた。瞼の向こう側に蛍光灯の光があるのがわかる。
ああ、僕は帰ってきたんだ。
眼を閉じたまま、少しだけ手を動かしてみる。手は問題なく動いた。
あとは、そうたぶん、目を開けるだけだ。
(あれ、目ってどうやって開けるんだっけ?)
僕は愕然とした。
あの人が言っていた、身体が少し心配ってこのことなんだろうか。それとも、僕が気付いていないだけで、何か重大な異変が僕の身に起きているのだろうか。
手のひらにじわりと汗が浮いた。
ぎゅっと握りしめるけれど、さっきまであったはずの鎖の感触はない。
とてもとても長い夢を見ていた。
(――夢?)
閉じた瞼に悲しげな微笑みが浮かぶ。
いや、あれは夢ではなかった。現実でもなかったけれど、僕が一人で見ていただけのただの夢ではなかった。
そして僕は帰ってきたのだ。
(なんやわれ、眼の開け方を忘れちまったのか。魚どもは瞼の閉じ方もとっくに忘れたってえのに)
どこからともなく、カメの声がした。
した、というか、どこかでカメがそう言っている気がした。
……でも魚に瞼ってなかった気がするけど。
(ほれほれ、ちゃんと目を開けて見ろ。われがいる場所をちゃあんと確かめな)
僕のツッコミをごまかすように、またカメの声が聞こえた。
うん、わかったよ。開ける。
たぶん目を開けたら、僕の夢は本当に終わるんだろう。あの人にはしばらくは会えないだろうし、あの場所にはきっと二度と戻れない。そしてカメの声もこんな風に聞こえることはないだろう。
それでも僕は目を開けなくちゃいけないんだ。
だって帰ってきたから。
全身の力を抜いて、ゆっくりと瞼を開く。
眩しい光がまっすぐに入ってきた。
僕の眼は思っていたよりもずっと簡単に開いて、そこには懐かしいような見馴れたような、蛍光灯がぶら下がる少し汚れた天井が見えた。
蛍光灯の眩しさに耐えかねて、僕は身体を起こす。ここはどこだろうか。
事務室のようなところだ。僕が寝ていたのは革張りのソファーで、すぐそこには学校の保健室にあるような布のついたてがあって、あまり周りの様子は見えない。ついたての向こうに少しだけ、ドアのようなものが見えた。
周囲を見回すと、思い出したように後頭部がずきずきと痛みだした。なんでこんなところが痛いんだ?
(――――――あ、カメ)
「あ、目が覚めたのね! どこか痛くない? 気分は?」
急に女の人の声がした。
びっくりするてそっちを見ると、見覚えのある人が僕の近くへ走り寄ってきた。すごくほっとした顔をしている。しゃがみ込んで僕と向き合うと、明るい茶色の髪がふわりと広がった。そうだ、この水族館で受付している人だ。
「あ、あの、カメ……!」
「え?」
「カメ、大丈夫ですか? 地震があって……それで……!」
僕はなんだか、すごく久しぶりに言葉を喋るみたいに、うまく伝えたいことをまとめることが出来なかった。ロウバイしているのだ、と思う。
ものすごく慌てている僕の肩に、受付のお姉さんは優しく手を置いて微笑んだ。
「大丈夫、地震は大きかったけど、水族館の動物たちはみんな無事よ」
だから落ち着いて、と言われて僕は俯く。
うまく言えなかったことと、お姉さんを心配させてしまったことが恥ずかしかったのだ。それでも、カメや他の動物たちが無事だとわかって、ほっと息を吐き出す。
お姉さんの手が僕の方から離れた。
と、同時に、ドアの向こうから大人の人の話し声が聞こえだした。
最初は小さくて、少しずつ近づいてくる。
(……そういえばカメだけだったんだろうか)
あの人の言葉を思い出す。あの時、カメだけじゃなくて、もっと何か―――
大切なのは、
「暁良!」
バン、とすごい音とともにドアが開いて、声が響いた。
あっという間に、ドアから僕のいるソファーのところまでやって来て、僕の前にしゃがみ込んだ。
「……お母さん」
僕が呟くと、お母さんは顔を上げて僕をきつく睨んだ。思わず肩がすくむ。
「もう! 心配させて……!」
「ごめんなさい、大丈夫だから」
ふ、と視界が暗くなって、お母さんの腕が僕の身体を強く抱きしめる。ふわりとお母さんの匂いがして、こんな風に触れ合うのは久しぶりだと気が付いた。
(ああ、そうか)
僕は眼をしっかり開けていたけど、あの人が穏やかに笑うのが見えた。
それは何度も見た悲しそうな微笑みではなく、最後に見せてくれたとても優しい笑顔で、僕は一度だけゆっくりまばたきをする。
(僕が待っていたのは――――)
体中からお母さんのぬくもりが伝わる。
申し訳なさと恥ずかしさと嬉しさがごちゃ混ぜになって、僕はお母さんの肩に顔をうずめる。抱きしめられて暖かくて気持ちがいいなんて、僕もまだまだ子供だなあ。
実際、僕は子供なわけだけど。
顔をうずめて眼を閉じていたら、お母さんが動いた。
受付のお姉さんがしたみたいに僕の肩に手を置いて、僕をまっすぐ見つめる。眼が少し赤かったけれど、お母さんは笑っていた。
それが、嬉しかった。
(そうですよね、セーチさん)
「お母さん、一緒に回ろうよ。僕の大好きなカメを紹介するから」
「そうね。でもその前に病院よ」
「…………ハイ」
***
――彼女の場合
誰かが叫んでいる。
ひどく焦っている声だ。少しハスキーな感じの、とても心地好い声。
もっとやさしい声で、名前を呼んでくれたらいいのに。
暖かい海の中を漂っているみたいな夢見心地のまま、私はそんなことを思う。ゆっくりと波が引くように夢のような心地よさが引いていき、誰かの声がクリアになっていく。
誰か――違う、もっと大切な―――……
「……い、木下! ――まひる!」
ぱっ、と視界が開けた。
目の前に先生の顔がある。
一瞬、驚いた顔をした先生は、けれどすぐにその表情を引っ込める。骨張ったその手で口元を覆って、私から目をそらす。
「先生、今……名前」
「―――うっ」
ますます先生の視線が離れていく。
まだ耳に残っている余韻。
夢でも幻でもなく、確かに私の鼓膜を揺らした音。
痛い。
痛いくらいに心臓が震えてる。
どうしよう、もう一回、気を失いそうだ。
「そ、それよりお前、大丈夫なのか?」
必死に動揺を隠して声を上げた先生は、あっという間に責任感の強い担任の顔に戻ってしまっていた。さっきまでの狼狽っぷりを全然感じさせない真剣な表情で、怪我は?とか痛いところはないか?とか頭打ってないか?とか……やっぱり半分は照れ隠しかもしれない。
「ええと……平気です、はい」
そういえば、私、地震があって倒れたんだっけ。
なんだか夢を見ている間が長すぎて、そんなことすっかり忘れていた。
(……夢?)
夢、だったのだろうか。
身体を起こそうと、冷たい床についた手には鎖なんて握られていなかった。
確かに握っていたはずなのに。
もう忘れかけている鎖の感触を思い出したくて、じっと手のひらを見つめる。
「手が痛むのか?」
「あ、違います。全然どこも痛くないです」
ぱたぱたと手を振って、笑ってみせる。本当にどこも痛くないのだ。これ以上、余計な心配をかけさせたらいけない。
(あれ?)
顔を上げた私の眼に、散らかった部屋が飛び込んできた。
先生はあまり整頓をきちんとやる方ではないけれど、いくらなんでも床にファイルや書類や用途不明の箱なんかを散らばらせておくような人じゃない。
あれは……そうだ、棚の上に置かれていた物じゃないだろうか。
地震の揺れで落ちてきたのか。
先生の足元に転がる、派手な模様の箱を何の気なしに見つめる。
大切なのは、
穏やかな声音が頭をよぎる。
あのとき、地面が揺れて、倒れ込んで、そして。
「……もしかして、先生がかばってくれたんですか」
覚えている。
気を失う直前、暖かい感触に包まれたのを。
「お前は俺の大切な生徒だからな」
何度も聞いたセリフ。
いつもなら、まっすぐ私たち生徒の眼を見て言うセリフ。
私の前に所在なげに座り込んでいる先生は、困ったように照れたように視線をそらしてそう言う。
ついさっき見たばかりの照れた横顔が目の前にある。ついさっき呼ばれた名前が頭をよぎる。
(ああ、そうか……)
「―――先生っ!」
「だあ、ひっつくな!」
すぐ近くにあった先生の首に飛びついて腕を回す。
拒んだのは声だけで、ほんの数秒の躊躇のあと、先生の手がやさしく背中を叩いた。小さな子供をあやすように。
暖かい体温が全身から伝わってくる。
眼を閉じると、微かに煙草の匂いがした。
(私を待っていてくれたのは――――)
「……たく、お前は、困った生徒だよ」
「でも大切なんですよね?」
言い返すと先生が言葉に詰まる。
それがなんだかかわいくて、くすくすと笑ってしまう。
たぶん、今、必死に言い訳を考えているんだろう。困ったような顔をして。照れたような顔をして。
ゆっくりと首に回した腕を緩めて、まっすぐ先生と向き直る。こんなに近くから先生を見るのは初めてだ。
何か言おうとした先生が、ふと口を噤み、苦笑した。
しょうがねえなあ……という苦笑だった。
それから、すぐにどちらからともなく吹き出した。
笑った拍子にゴチと音を立てて額がぶつかる。それがおかしくて、また笑う。馬鹿馬鹿しくて、それでもそれが楽しくて嬉しくて、どうか先生も同じ気持ちでありますようにと祈った。
(そうよね、セーチさん)
「先生、またお弁当作ってきますね」
「……期待しないで待っとく」
「もう。少しは期待してくださいよ!」
***
――彼らの場合
世界は黄昏に包まれている。
長いようで、果てしない彼の時間から見れば一瞬だった夜が過ぎ、夜が訪れたことすら
泡沫(の夢だったようにも思えてくる。
沈まない夕日が、部屋に深い陰影をもたらす。セーチはいつだったかと同じようにぼんやりと窓の向こうの夕日を眺めていた。
そう、少なくとも嘆くようなことはないのだ。
夜の薄闇の中で出会った二人を思い浮かべ、彼の口元に自然と笑みが浮かぶ。
それに応えるように、彼の持つランプがいっそう柔らかく明るく光を放つ。
不意に、狭い部屋の中にノックの音が響いた。
「おや……どちら様ですか?」
まさかあの二人が戻ってきてしまったのだろうか、と一瞬考えたが、世界は今も黄昏に包まれている。
「俺」
扉の向こうからは声が聞こえてきた。少し不機嫌そうで、少し不安そうな声。
聞き覚えのある声に、セーチははっとしてすぐに扉を開ける。その向こうには誰の姿もない。しかし、すぐに何者かの気配だけが部屋の中へと入ってくる。
気配はしばらく入ってすぐのところに佇んでいたが、すぐに部屋の中をうろつき、窓の向こうを覗き、四方の壁を丹念に眺めたあと、小さな音を立てて椅子に腰かけた。
「還らなかったんですか?」
セーチが誰も座っていないように見える椅子に向かって言った。
「あの子らのおかげで立派な道ができたし、還りたくなったら還るよ。今はなあ……どうせバードはいねえだろうしぃ」
ふてくされた子供のような声が部屋の中に響く。
椅子の上に足を組んでだらしなく頬杖をついた少年の姿が見えた気がして、セーチは笑う。
「でも、なぜここへ?」
声の主がちらりとセーチを見た気配がする。
「あんたはむかつけど、まあ、――――付き合ってやるよ。最後までランプと二人っきり?ってのもアレだろ」
姿が見えない少年が、にやりと笑った気がして、セーチは一瞬惚ける。
手に持ったランプが物言いたげに明りを揺らがせたのが見えたが、セーチは苦笑するだけですぐに声と向き合う。
「……ありがとうございます」
「ふん。還りたくなったら還るからな」
「ええ、その時までよろしくお願いします」
小さく頭を下げると、照れたようにそっぽを向いたようだった。ふと思いついて、紅茶でも飲みますか?と聞いたら、飲むと短い返事が返ってきた。
どうやらこれからは、物思いにふける時間が少なくなりそうだな、とセーチは思う。
そう、嘆くことなどないのだ。
テーブルに紅茶を置いても、動く気配はなかった。
椅子に眼をこらすと、真剣な表情で窓の向こうを見つめている姿がうっすらと見える。セーチもまた、その気配に促されて夕日を見つめる。
大切なのは、
「……会えっかな」
例えば、鳥と呼ばれた夢に。
例えば、別れたはずの弟に。
「会えますよ」
沈み続ける夕日の中を、一羽の鳥が飛んでいった。
fin.