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帰り路


 0、それは夢の果てで


 黄昏時は夢の香りがする。
 世界は濃いオレンジ色に染まり、足下に落ちる影は夜の色をしている。見慣れた景色だった。見馴れすぎた景色だった。

 彼の世界はいつも黄昏の中にある。

(つまり僕の時間は終わり続けているということかな)
 終わりもせず、始まりもせず、ただ終わり続けるだけの世界。
 何も生まず、何も殺さず、一人漂い続けるだけの世界。
(こうしてここにいられることは幸福なのか、不幸なのか)

 この世界は永遠に似ている。

 彼以外なにも動く気配のない狭い部屋の中で、彼はぼんやりと物思いにふける。小さな窓からは、沈んでいるのかも止まっているのかも判別できない夕日が見える。
 少なくとも嘆く必要はない、と彼は思う。
 呼応するように、持っていたランプの灯りが揺れた。


「ああ、お前と出会えたことは、幸福だと思っているよ」


 ランプの輝きが強くなる。喜んでいるようだ。このランプは意志を持っていると彼は勝手に思っている。確証はないが、的外れということはないだろう。
 彼は微笑みを見せて、ランプを目の高さまで上げた。
 だが、ランプを覗き込んだ瞬間、彼の表情にかげりが浮かぶ。
「……どうした?」
 さっきまで感情を見せていたランプが、ただのランプになった。
 音のない風が、彼らの周囲を変えていく。
 急速に冷える空気。

 それは、世界が反転する一瞬。

 世界に夜が舞い降りていた。
 オレンジの光はなりを潜め、青と黒だけが世界に残される。
 周囲にある明かりは、このランプだけになる。
 それは、目に見える予感。

 夜が。



 1、始まりはいつも唐突

 あの日僕らは道に迷って


 ***

 ――彼女の場合

 あれは暑い夏の日のことだった。
 先生がいる日を聞き出して学校に押しかけた、そんな毎日の中の一つだった。
「だから用もないのに……」
 私の顔を見ると、黒崎先生ががくりとうなだれた。苦々しい顔で煙草を灰皿に押付ける。他人(非喫煙者及び未成年)がいる所では煙草は吸わない。先生らしいモットー。
「だーかーらー、センセイに会うっていう、大っ切な用事があるんですってば!」
 昨日と同じセリフを私が言うと、先生はやっぱり昨日と同じように深いため息をついた。
「……そんなことより、英単語の一つでも――」
 覚えろ、と先生が言う前に、私は鞄から単語帳を取り出してみせる。
「覚えればいいんでしょう?」
「――お前な……」
 一本とられた、という顔をした先生を見て、私は嬉しくなる。もちろん、こんな物を開かずに、先生とずっと話したりしていられるのが一番いいんだけど。さすがにそこまで我儘を通すわけにもいかないことぐらいわかってる。相手は先生、そしてここはその職場。仕事の邪魔はそうそうできない。(と、ここまで言うと「じゃあ帰れ」と言われるだけなので口には出さない。それぐらいの我儘は許してもらわないと)
 矛盾だらけ、大いに結構。
「ねぇ、センセイ」
「何だ?」
 私が大人しく単語帳とにらめっこしているせいか、単に先生が諦めたせいか、先生はやわらかい声音で返事をする。私の一番好きな先生の声。聞くと、泣きたくなる声。
「ヒマな日とかっていつですか?」
 じわじわと心臓から広がる熱。
「……ないな」
 声が少し固くなる。拒絶の意図が見える。
「嘘。いくらなんでも1日くらいあるでしょう?」
「社会人は学生と違って忙しいんだよ」
 困ったように先生が笑う。
 苦い、熱。

 センセイ、あなたが好きです。

 何度も。何度、傷ついても駄目だった。どうしても諦めるなんてことできなかった。
「じゃあ半日」
 できるだけ表情を変えずに言う。下手に悲しそうな顔を作るより、無表情で問いつめる方が先生には効く。そういうことも、一つ一つ全部覚えてる。
「あのなあ……」
 先生がため息と一緒に、そう吐き出した。タバコを吸いたそうだ。でも、引いてなんてあげない。
「映画」
「は?」
「観たい映画があるんです。行きましょうよ」
 先生の眉間のしわが深くなる。
 まずいかな。やりすぎたかもしれない。
「そういうもんはトモダチを誘え、トモダチを」
 そう言って顔をそらしてしまう。
 失敗した。
 いや、確かに先生という立場の人が生徒の誘いに乗ってしまったら、それはそれで問題なのだけど。今更そんなことを気にしている訳じゃないんだけれど。
(……ああ、そうか)
 たぶん、にじみ出る焦燥感に気付かれたんだ。今朝からまとわりついている、心臓を絞り上げるように恐怖。
(馬鹿みたい、たかが夢なのに)
 そうただの夢。少しリアルすぎただけの、悪夢とも言えないわかりやすすぎる夢。
 先生の隣に並んで、腕を組む権利のある女の人がいるって、ただそれだけの。
 そんな夢でヘコむなんて、らしくないにも程がある。プラス思考が私の長所じゃないの。
(……でも、ダメ。これ以上ここにいたら、私、先生に何言っちゃうかわからない)
 キリ、と心臓が痛んだ。

 センセイ、あなたは、私を、ほんの少しでも好きだと思ってくれていますか?

「……木下?」
 先生の声が低くなる。
 当たり前。誘いを断れたぐらいで顔をしかめて俯くなんて、今までの私じゃ考えられないもの。
(センセイと! 行きたいンです!)
 そう、言ってのけるのに、いつもの私なら。
 痛い。
 心臓が、悲鳴を上げている。
「――すみません、センセイ。やっぱ私、今日は帰ります」
 早口で告げて、単語帳を乱暴に鞄に突っ込む。ページが曲がったようだけど、気にしていられない。立ち上がると、パイプ椅子に足が当たってガタ、と音を立てた。
 いつの間にか、私の席になっていたパイプ椅子。ドアの右斜め前。センセイとの距離は一メートルと、ちょっと。
「おい、木下……」
 先生の立ち上がる気配がした。いつもならきっと喜んでいる状況なのに、先生が私を心配しているのに、私は先生の顔が見られない。
 怖い。
 ……おかしい。おかしいよ、私。
 なんでこんなに、怖くて泣きたいんだろう。
「それじゃあ」
 俯いていた頭をさらに下げて、一言だけ口にする。それが今の私の精一杯。振り返ってドアに向かって一歩踏み出す。
 その瞬間。
(―――――え)
 ドン、と横殴りの衝撃。
「やっ……!」
 視界に綺麗とは言いがたい床が迫ってはっとする。咄嗟に右手を出して、床に手をついた。倒れた――というよりは、驚いて膝が抜けたらしい。
 そこら中がガタガタと音を立てている。地震だ。
「木下!!」
 先生の叫び声。次いで何かが倒れる音。
 たぶんそれは先生の椅子だと気付いたときには、私の視界は真っ黒に染まっていた。
 激しい耳鳴りがして、私は叫ぶ暇もなく意識が何処かへ消えていくのを感じる。
 気を失う直前に、何か暖かい感触があったけれど、結局それが何かは解らなかった。



 ***

 ――彼の場合

 あれは暑い夏の日だった。
 近くの水族館に行ってカメのいる水槽を眺めていたときの事だった。
 僕はわりとカメが好きで、ここ以外の水族館に行ったときも必ずカメのいる場所を一番に確認するのだけど、この水族館のカメはなんとなく違う気がしている。微妙に、顔とか甲羅の模様とか、泳ぎ方とか、うまくは表現できないけど。
 だって、他のカメを見ても、ここのカメとは違う気がするんだ。だから僕はきっと、いろんなカメの中からこのカメを選び出せると思う。多数の中からは無理でも、ニシャタクイツぐらいなら、たぶん。
 その日もカメはいつものようにのんびりと泳いでいた。急ぎもしないし、ずっとじっとしているということもない。何かを考えているようにも見えるけど、何も考えていないようにも見える。
「……何か考えてるのかな」
 小さく呟いたら、不意にカメと目が合った気がした。
 僕は驚いて三回ぐらいまばたきをする。その間もカメはじっと僕を見ている。
「……僕に、何か言いたいことがあるの?」
 また小さく呟く。カメはすっと目をそらして、ガラスにそって僕の目の前を横切った。
「あっ」
 一瞬だけ、カメがこっちを見た。まるで通りすがりの人がちらっと横目で見て行くみたいに。あるいはカメにとっては小さな水槽の中をぐるぐる回ってるんじゃなくて、「通りすがり」なのかもしれない。
(なんやわれ、さっきから用でもあるんか)
 カメの目はそういっているように思えた。なんとなく、このカメはそういう喋り方をするような気がする。そういう年期の入り方をしてる、と思う。
「話ができたらいいのになあ」
 僕から離れていくカメを見ながら思わず呟くと、くす、と笑い声がした。ちょうど後ろを通っていた人に聞かれてしまったらしい。
 顔が熱くなる。知らない人に笑われてしまった。
 慌てて水槽のカメに見入るフリをして、去っていくその人を盗み見したら、その人の関心はもう別の水槽に移っているようで安心した。隣を歩く背の高い男の人の腕に、腕を絡ませて楽しそうにタツノオトシゴのいる水槽を指さしている。
 聞かれたことは恥ずかしいけれど、ちょっとだけ子供でよかったと思う。僕はまだ小学生で、とても年相応の格好をしているから(中身は時々大人びてると言われるけれど)、そんなに気にされなかったみたい。ほっ。
 安心してカメに目を戻すと、目の前に顔があって僕はビックリした。あまりに突然だったから、セキズイハンシャで身体がビクッ、と反応してしまった。
 カメはそれをひどく冷静に見ている。
(失礼なやっちゃなあ、人の面ァ見てそんなに驚くたぁ)
 面倒くさそうにカメの口が開いて、細い舌が見えた。
 僕はごめんなさい、と言う代わりに少しだけ目を伏せる。
(で、さっきから、なんか聞きたいことでもあるんか?)
 僕とカメはじっと見つめ合う。聞きたいことはたくさんある気もするけど、あまり形にならないし、なっても口にするのはためらわれた。
 また、さっきみたいに知らない人に笑われるのは困る。たぶん、とても困る。
(なんやぁ、張り合いのない。言いたいことの一つも言えんようじゃ、世の中生きていかれんで?)
 それは……たぶんそうなんだけど。
 でもなんかちょっと、水槽の中のカメに言われるのは少しシャクゼンとしないものがある、気がする。
 ……なんか、今日の僕は少しおかしいかもしれない。
 きっと、嫌な夢を見たせいだ。
 夢の中で僕は今まで通りの僕なんだけど、僕以外全て全部違ってしまっていた。どこがどうとは言えなかったけれど、それは全部さっきまでのそれとは違うものになっていた。
 そして僕は、その中で一人だった。
 周りのもの全てが、「お前だけが異質だ」と言っていた。
 それは、夢の話だけど。
 僕はまばたきをする。
 その一回のうちに、カメは僕から目をそらしてしまった。
「……え?」
 あまりの唐突さに、僕は思わず声を上げる。
 何かが起きた?
 僕の周りの全てのものが僕が目を離しているうちに変わってしまったような気がして、慌てて辺りを見回した。右隣のラッコのいる水槽。何人か僕と同じぐらいか僕より小さな子供が楽しそうにガラスに張り付いている。暗い室内の壁は青くて、照明も青い色の光を作り出している。僕後ろには筒状の水槽。上からさんさんと電球が照らして、中をイワシが泳ぎ続けている。さらに奥には階段。さっき僕を笑った人たちの後ろ姿が見えた。そして左側に並ぶ小さな窓。中にはタツノオトシゴや熱帯魚たちがいて、恋人さんたちが楽しげに覗き込んだり一生懸命指をさしたりしている。
 大丈夫。世界はいつものままだ、と薄明かりに照らされる僕の掌を見つめる。
 でも、本当に?
 これは僕が信じ込んでいるだけで、本当の姿とは違うんじゃないのかな。世界が僕の知らないうちに変わってしまって、その時、僕も一緒に変わってしまって、それで僕は変わったことも変わる前のことも忘れてしまっただけなんじゃないのかな。
 ……なんだか息が苦しい。
 なんだろう、これ。僕、どうしたんだろう。
 助けを求めるようにカメを見たけど、カメはガラスに背を向けて、奥の方をゆったりと泳いでいた。さっきまでのことが嘘みたいに。
 嘘、だったんだろうか。
 それとも世界が変わってしまって、さっきまでとは違うカメになってしまったのだろうか。
 確かめたくても、カメはいっこうにこっちに来る気配がない。
「ねぇ、こっちに来てよ」
 変わってないって証明して。さっきまで、僕のこと見ていてくれたよね?
 僕はガラスに手を触れる。ひんやりとした冷たさが僕に伝わる。
 これは僕とカメとを遮断している境界線。でも、これがないと僕もカメも生きていけない。住んでる世界が違うんだ。カメに僕の気持ちが伝わらない。
 どうしよう。
 僕は必死で首を振った。
 違う、違う、そんなこと起こりはしない。あれは夢だ、ただの夢。
 ただの夢なんだから。
 唇をぎゅ、と噛み締めて顔を上げる。
 また後で来るよ、とカメに言おうとして口を開き書けた。けれど言葉が出てくる前に、大きな振動が僕を揺さぶった。
「っわ!」
 地震だ、と思ったけれど、思ったところでどうにもならない。地震の時は机の下へ……って、机なんかあるわけないじゃないか!
 周りの人はどうしてるだろう、そう慌てた頭で考えついて振り向いた。ら、タイミングが悪かったらしい。僕は思いっきりバランスを崩して、背中を向けていた水槽へ倒れ込む。中途半端な体勢のせいで手をつくこともできなかった。
 ゴチ、と意外と可愛い音だと思った次の瞬間には、僕の目には何も映らなくなった。まさかこんなことで死にはしないよなと思いながら、頭の片隅でガラスが割れたりしていないといいと思った。
 だって境界線が壊れたら、僕もカメも無事じゃいられないから。
 そうして僕は意外と冷静に気を失った。



 2、話はいつでも混線中

 ランプは静かに灯されて


 ***

 ――彼らの場合


 一本の道がゆるやかな丘陵の間に伸びている。
 世界は薄暗く、頭上には大きくいびつな形をした月が昇っていた。普段見上げる夜空のものより格段に大きな星が、きらきらと淡い色を変えながら輝いている。
 まるで色褪せた古い写真を覗くような世界。
「おとぎ話みたいですね」
 どこまでも続く丘陵を見渡しながら少年が言う。
 月と星以外、光源のような物は見たらないというのに、辺りは薄闇に包まれているだけ。カーテンで閉め切った部屋は、これぐらいの明るさだったろうかと彼は思う。こんな風景を彼は見たことがない。
「そうね。こんな風に薄暗いのも何かの演出みたい。夢鮮やかな物語じゃなくて、古い古いずぅっと昔に取り残された寓話……とか、そんな感じ」
 例えば物置の中で埋もれ忘れられてしまった古い本。埃をかぶって色褪せたその本には、こんな物語が書いてあるんじゃないだろうか。少年の隣を歩きながら、木下(きのした)まひるはぼんやりと空を見上げる。
 その本は絶対に堅くて厚い赤い表紙だ、と彼女が考えていたとき、隣で少年が声を上げた。
 この道の上で偶然であった少年。国光(くにみつ)暁良(あきら)と名乗った彼は、まひると同じように気がついたらこの道の上にいて、途方に暮れていたのだという。
「まひるさん、あそこ。家があります」
 彼が指さした方を見ると、丘の向こうに小さな家が建っているのが見えた。それこそおとぎ話に出てきそうな赤い屋根の小さな家だった。
「……お菓子で出来ていたりして」
「ヘンゼルとグレーテルですか?」
「私たち、パンも小石もないけどね」
 まひるが笑って言う。
 すると暁良が振り返り、今まで歩いてきた道を見つめた。どこから歩いてきたのかすらわからないどこまでも続く一本道。
「大丈夫です。たぶん、必要ないですから」

 小さな家の屋根に付けられた小さな煙突から、細々と煙が上っている。中に誰かいるのだ。二人はそう思って顔を見合わせた。
 家の周りをぐるりと一周する。窓は厚いカーテンで塞がれていて、中を覗くことは出来そうにない。玄関の近くにポストのような物があったが、そこに書かれていた文字は見たこともない模様のようなもので、まったく読めなかった。
「どんな人が住んでるのかしら……」
「魔女じゃないといいですね」
 まひるが少しこわばった顔で頷く。魔女でなくても、何か恐ろしい者がいてもおかしくはないのではないか。暁良の顔をうかがうと、やはり同じようにこわばった表情で扉を見つめていた。
 玄関の扉では錆びたノッカーが沈黙している。
 二人はどちらも進んで動くことが出来ず、長い間そこで立ちつくしていた。
「そこのお二人さん」
 不意に後ろから声がかかった。二人の肩が目に見えて震える。
 慌てて振り返るが、声の主の姿はどこにも見えなかった。二人の前にあるのは何本かの低い木と、ゆるやかな丘、そして夜空だけ。
「その家に用があるのか? やめといた方がいいぜ」
 姿をとらえることが出来ないまま声だけが響く。
「あなたは誰? どこにいるの?」
「俺は俺さ。誰にどう見えるかもどこにいるのかも関係ない。引きずられた憐れな夢の残骸だからよう」
 また声が二人の後ろから聞こえた。
 振り返れば小さな家があるだけで、やはり姿は見えない。
「あの、よくわからないんですけど……あの家にはどうして行っちゃいけないんですか?」
「行っちゃいけねえってことはねえよ。ただ、あの家に住んでるのは元凶だってことさ」
 今度は頭上から声が響いた。
 いびつな月が浮かぶ夜空を見上げて、まひるが眉をひそめる。
「元凶?」
「そう、世界がこうなっちまったことのよ。あー嫌だ嫌だ。あいつさえいなけりゃ、俺は今頃……どこにいたんだろうなあ」
 二人はなんとなく、自分たちの目の前でふわりふわりと浮かんでいる気配をとらえる。投げやりでどことなく間延びした雰囲気が、その気配から伝わる。
「僕たち、もといたところに帰りたいんです。どうしたらいいか知っていますか?」
 ぴたりと、漂っていた気配の動きが止まる。一瞬、その輪郭が見えた気がしてまひるは眼を細めて見つめた。人のような姿を見たと思った瞬間、それは霧のように霧散した。
「もといた世界ねえ……」
 また声だけが響く。
「そういう相談なら、確かにあいつにすんのが一番なんだろうなあ。この辺りで一番、事情に詳しいだろうしぃ、そもそも原因だしぃ」
 不満そうに声が跳ねる。
「……なら、行く?」
 まひるが暁良に問いかける。はい、と彼が頷くと、また後ろから声がした。
「あー行くんだ、行っちゃうんだ。はいはいはい、それならどうぞ、さっさと行っちゃえば?」
 拗ねたらしい声が刺々しく言い放つ。
 刺々しい声は、しばらく文句を言うように愚痴愚痴といいながら二人の周りを回っていたが、やがてそれにも飽きたのか、
「ちぇ、せっかく仲間ができたと思ったのによう。あーあ、バードに会いてえなあ」
 小さな声でそう呟いて消えた。
「怒らせちゃったみたいですね……」
「うん。……でも、帰らないといけないし」
 それから少しの間、二人は周囲を気にしていたが、声がもう響かないことを知って再び扉に向き合った。
 錆びたノッカーは相変わらず沈黙している。
 まひるの白い手が輪を掴み、恐る恐る鳴らす。意外にもきれいな音が辺り一面に響いた。
 中からは何の反応もなく、もう一度鳴らそうかと手を伸ばしたとき、かすかな物音が聞こえた。誰かが、近づいてくる気配が伝わる。
 まひるの隣で、暁良が小さく喉を鳴らした。
 扉の向こう側にいる、元凶。一体どんな人だろうか。いや、そもそもそれは人だろうか。緊張をそらすように乾いた唇を舐める。
「……どなたですか?」
 やがて扉の向こうから聞こえてきたくぐもった声は、二人の緊張を裏切って極々普通の声だった。高すぎも低すぎもしない、穏やかな大人の男性の声。どこか緊張しているようなのは、こうして扉を鳴らす人間が少ないからだろうか。それとも、元凶だと言うことと何か関係があるのだろうか。
 途惑いながら、まひるは口を開いた。
「あの、私たち迷い込んでしまって、もとの場所に帰りたいんですが……ええと」
 何をどう頼んだら良いんだろうか。
 日本人は語尾を曖昧にしたがる人種だという話は本当だなと、くだらないことを頭の隅で考える。困ると見当違いのことを考えてしまうのは彼女の癖だった。自覚はしているが、どうにもならないことも知っている。
「その、帰り方を知っていたら教えてくれないでしょうか?」
 なんとか言葉を繋げることが出来てほっと息を吐く。お願いしますと、まひるに合わせて暁良も続けた。
「……ああ、なるほど」
 扉の向こうから、そんな言葉が聞こえてきた。そして勢いよく扉が開く。
 あまりの唐突さに二人が反応出来ずにいると、目の前に現れた青年は穏やかに微笑みながら、まるであらかじめ用意されていたセリフのように言った。

「ようこそ、迷い子さんたち」


 青年に招き入れられた部屋は奇妙だった。
 分厚いカーテンのせいで窓からの光はほとんど遮られ、部屋の中は薄闇だった外よりも暗い。白黒の印象が強かった外とは対照的に、原色に近い紫で部屋中のものが統一されているようだった。所々に鮮やかな色の小物がアクセントとして配置されていて、どことなくコミカルな印象が漂う。壁には暖かみのある明りを灯したランプがつるされている。少しいびつな形をしているそれは、何かのオブジェのようだ。
 まるで、占い師のテントに入ったようだった。それも、本格的なものではなく、なにかのテーマパークにありそうな、イメージ先行の。
 さして広くもない部屋の中央には木で作られたテーブルと椅子があり、それぞれ紫の布がかけられていた。勧められるままに二人は椅子に腰かける。青年の分の椅子もあったが、彼は立ったままだった。
 そして彼は、二人を迎え入れたときと同じ穏やかな笑顔と、あらかじめ用意されたセリフのような口調で二人に語りかける。
「僕はセーチ。ちょっとここで隠遁生活を送っている夢渡りだ。君たちは?」
 その声はどこか楽しそうだ。
「あ、ええと、まひるです。木下まひる、一応、女子高生ですけど……」
「国光暁良です。……ただの小学生です」
 二人はお互いに顔を見合わせ、とまどいを隠せないままに言う。同じようにきょとんとして、同じようにまばたきをしている様を見て、青年は楽しげに笑う。
「よろしく、まひるさんに暁良君」
 そしてふと思いついたように振り返り、棚に置かれていたティーカップを二つ手に取る。
「ではまず、お茶をどうぞ」
 言いながら、空っぽのカップを二人の前に置く。二人が何か言う前に、どこからともなく滝のように鮮やかな色をした液体がカップに向かって流れ落ちてきた。
「……ええ!?」
「さぁ、どうぞ。安心して、とても美味しいだけの普通のお茶だから」
 驚く二人に向かって彼はにこやかにそう言う。
 不安そうでかつ疑わしげな視線が彼に注がれたが、彼はどこ吹く風でいつの間にか手に持っていたカップに優雅に口を付けている。
 どこかから吹き込んできた風が、ふわりと香りを二人のもとへ巻き上げた。それはとても馨しく、こんなに深みのあるきれいな香りのものに毒があるなんてあるのだろうかと、まひるは目の前のカップを凝視する。
「……きれいな薔薇には棘があるのよね」
「どっちかというと、毒キノコはきれいだって言う方が適切だと思います」
 少しの間、カップとその中の美しい色の紅茶を眺めていた彼女は、覚悟したように一回うなずいて、華奢な取っ手を手に取った。そしてゆっくりと口元へと運ぶ。
 決して優雅とは言えないその動作を、暁良が固唾を呑んで見守っていた。
「……せんせい、どうか」
 まひるにしか意味の通じない祈りを込めて、紅茶をゆっくりと飲み込む。
 一瞬彼女の動きが止まり、暁良の心臓が早鐘を打つ。
「――――おいしい……こんなに美味しい紅茶、飲んだことがない……」
 まひるは呆然とした顔で紅茶を見つめる。
 その言葉を聞いた暁良が、少し不安そうに紅茶を飲んだ。
「本当だ……こんな紅茶、飲んだことがありません」
 呆然としている二人を見て、セーチは満足げに微笑んだ。
「気に入ってくれたかい? これは少し特別な紅茶でね、貴族猫たちが見る夢で取れるマタタビ茶葉と夜明ヶ丘の朝露で作られた紅茶なんだ。隠し味には、切なさで流れた星の欠片を一降り」
「貴族猫?」
「星の欠片?」
「そう。どちらも夢の世界でもとても珍しい一品さ」
 セーチのさらりとした一言に二人の動きは硬直する。
「……ゆ、ゆめのせかい?」
 何とも言えない表情でまひるが呟く。童話のようだ、と考えはしたけれど。
 と、思いながらもどこかで納得している自分がいた。それは、隣にいる暁良も同様らしい。
 そういえば彼は名を名乗るときに、ゆめわたりと聞き慣れない言葉を言っていなかったか。
「ええと、その、夢って寝たときに見る夢ですか」
 なんとも表現しがたいような表情で暁良が言う。
 確かにここは夢の世界なのだろう、非現実で、捉えどころがなくて、そして妙に居心地が良い。納得出来る。が、受け入れがたい。
「ただし、ここは普通の夢の世界ではない」
 不意にセーチの声が冷たくなった。その顔も、真剣なものになっている。彼らを包む空気が一瞬にしてピンと張りつめる。
 急速に変わった部屋の空気に、二人は途惑う。心臓が締め上げられるような気分だった。
 なぜか痛々しいとまで感じてしまう、そう、それは切なさという感情によく似ていた。

「ここは、あり得るはずのない世界、あるべきではない世界。帰れなかった夢の嘆く場所」

 ことんと音がして、セーチの手にあったカップがテーブルに残される。
「現実と夢は、本来コインの表と裏のように表裏一体であるべきもの。表があるからこそ裏があり、その逆もまた然り。だが、表は表であり裏は裏である……それは揺るぎない正しさだ。変えることの出来ない、それが、現実」
 歌うように語る彼は不意に口を噤み、カーテンで閉ざされた窓を見つめる。
「その揺るぎない表と裏を入れ替えようとした者がいた。夢の世界を現実に、現実を夢に。世界をひっくり返そうとしたんだ。念入りに準備をして、実際にひっくり返すかなりの段階まで成功した」
「……それで、どうなったんですか」
 暁良がこわばった声で聞く。
「結論を言えば、とある人が頑張ってくれたおかげで失敗した。それにたぶん、ふせがれなくても叶わないことだったんだろうね。あるべき姿を歪めことは、きっとできない」
 遠くを見る彼の目が切なげに細められる。
 誰かを思っている。
 二人が見つめる中、一瞬自嘲めいた笑みを浮かべたあと、彼の表情が和らぐ。
 穏やかな微笑みを戻し、セーチが振り返った。
「そういうわけで世界は無事だったんだけど、一部の夢はうまくコインの裏に戻ることが出来なかった。ひっくり返されかけたままうまく戻れず、コインからはみ出したところで漂っている、それがこの場所」
 さっきまでの切なげな翳りは見られない。
 ポーカーフェイスのうまい人なのだなとまひるは思う。
「それが本当なら……私たちはどうやったら帰れるんですか?」
「うん、それなんだけど、―――ちょっと、ヒーローになってみないかい?」
 沈黙。
 開いた口をどうしたらいいかわからず、二人は楽しげに微笑む彼を見つめる。
「英雄、勇者、選ばれし者、神の使者……まぁ、呼び方はなんでもいい。ちょっとばかり、この世界を助ける手伝いをして欲しい」


 紅茶を飲み終わったあと、セーチに連れ出されたのは家の外だった。
 薄暗い丘陵をセーチ持つランプが暖かく照らし出している。明りが必要な暗さではないが、その光を見ていると不思議と心が安らぐ。
 二人の視線に気付いたのか、セーチがランプを持ち上げて微笑む。
「きれいだろう?」
「はい、とても」
「これはね、ここで生きる僕のために与えられた相棒なんだ」
 セーチを見る眼が愛おしげにランプを見る。
「相棒……?」
 暁良が首を傾げると、彼は苦笑して広い丘陵を見回した。
「君たちみたいな迷い子が来ることもあるけど、基本的に僕はこいつと二人なんだよ」
「え、でもさっき、ここに人がいましたよ」
 セーチの家に入る前に話しかけてきた()を思い出す。あれを人と呼んでいいかはわからないけれど。
「ああ、()のこと? 彼のようにここに住むものもいるけど、彼らは僕を憎んでいるからね」
「……あの声の人は、この家に住む人が元凶だって言っていました。それってセーチさんのことなんですか?」
「そうだよ。怖い?」
 セーチがかがみ込んで暁良と視線を合わせる。
 暁良は力いっぱい首を左右に振ることで答えた。穏やかに、そしてこんなにも悲しげに微笑む人が怖いはずなんてない。二人の様子を隣でみていたまひるも同じ気持ちだった。
「そう、よかった」
 セーチが心から嬉しそうに笑う。
 彼がなにをしたのか、どんな事態を招いてしまったのか、それを問う言葉が喉元まで出てきていたのが、その笑みを見て消えていく。聞けば教えてくれるだろう。けれど、この微笑みを消したくない、と思う。
「それじゃあ、行こうか」
 セーチが背筋を伸ばし、家の脇……丘陵を縫う道からそれたところへとランプを向ける。照らされて浮かび上がるのは、広がるばかりの丘と不思議な色の夜空だけ。
「え、あの、そっちなんですか?」
 てっきり道との先へ行くのだと思っていたまひるが声を上げる。隣では同じようなことを考えていたらしい暁良も、驚いた顔でセーチを見ていた。
「ああ、いいんだよ」
 セーチがどこまでも続く道を振り向く。
「あの道が続く限り、夢は終わらない。夢の道から外れたところに、現実はあるのだから」
 決して、夢と現実が同じ道の上にあることなどありえない。それこそ、ただの夢。
 三人は少しの間、果てなく続く夢の先を見つめていた。
 永遠に続く道。
 その終わりに何があるのかは、セーチですら知らない。いつかやるべきことをすべて終えたら辿り着けるのではないかと、彼は思っていた。そしてそれは、ただの想像ではなく確かな予測だろう。
 けれど、まだ今は。
 セーチは振り返り、不安そうな眼をしている二人に微笑みかけた。
「行こうか」
 そういって促された二人は、まだどこか名残惜しげに何度か振り返った。



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