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森よ、静かに眠れ


 学校指定のローファーの靴底から、湿った地面の感覚が伝わる。目の前を光がよぎり、反射的に顔を上げれば、美しい光に新緑の木の葉が透けている。カメラがないのが悔しい。
 見とれる視線を無理矢理に引きはがして、下を向いて歩く。土が跳ねて白い靴下に汚れを付ける。制服のスカートもどろどろだ。
 ……別に私は、制服姿のまま森の散策なんて無謀なことがしたい訳じゃない。
 自分でもよくわからないのだけれど、学校帰り気がついたらここにいた。いつもの帰り道をいつもと同じように歩いていたはずなのに、気がついたらここに辿り着いていたのだ。
 しんと静まりかえった無音ではない静寂の世界。
 樹のささやき。
 遠くでなく鳥の歌声。
 風のすり抜けるかすかな振動。
 森の、呼吸。

 たとえ一人で道に迷う時でも
 完全な孤独になることは難しい。
 自己と他者の区別は永遠の孤独を呼び、また追い返す。

 ……やっぱりあれかしら、深い森の奥に行って野宿しながら写真を撮りたいなあなんて考えながら歩いていたのが良くなかったのだろうか。でも、行きたいものは行きたいし。
「あーもうっ、なんでこんな日に限って持ってないのよっ」
 愛用の一眼レフ。父さんから譲ってもらったもので多少古いけれど、気に入っている。いつもは重い重いと言いながらも、いつどんなときに被写体が現れるかわからないからと、持ち歩いているのに。今日に限ってヤツの家に忘れるなんて。
「って、現実逃避してても仕方ないか。とにかく、どうやってここから帰るかなんだけど……」
 ぼそぼそと、私の声が森に響く。
 看板でも出てないかと思って、さっきからずいぶん注意してみてはいるけど、影も形も見つからない。それどころか、延々この獣道のような一本道が続いているだけだ。
 ……いい加減、ヒスでも起こしたくなってきた。
 ええい、夢なら覚めやがってくださいっ。
「おい!」
 ちゃぶ台返しのまねごとをする私の耳に、低い声が届いた。
 が、辺りを見回しても誰もいない。
「おい、ここだ、ここ!」
 声は相変わらず聞こえているけれど、影も形も全くなし。
「ここだっつーのっっ!」
 ぐわっと何かが視界を埋めた。
 それは人。三十代半ばぐらいのいい年の男。短髪と無精髭がワイルド感をアピールしていて、少し掠れ気味の声とぴったりな外見。「いいオトコ」なのかもしれない。
 小さくなくて、可愛らしい羽がなければ。
「………………すみません、脳が受け付けてくれないんですが」
 目の前にいたのは、童話か何かに出てきそうな妖精の羽を背中にしょった、手に乗っかってしまいそうな中年。
 彼は私の一言をさらりと無視して(聞こえなかったのかも知れない。うまく発音できたかも自分で疑問なぐらいだし)、その小さな掌から、一輪の可愛らしい花を出した。
「俺は妖精の浅葱(あさぎ)。あーちゃんと呼んでくれ」
「……はあ」
 ていうか、花を出した意味はあるんでしょうか。フェミニスト? 違うか。
「私は吉野(よしの)日向(ひなた)といいますが」
「そうか、日向。さっそくだが、困っているだろう?」
「ええ、まあ」
 目の前には理解の範疇を越えた素敵な妖精さんがいらっしゃるので。
「聞きたいことがあったら、何でも言ってくれ。力になる」
「はあ。じゃあ、ここはどこですか」
 すると浅葱さんことあーちゃんが、なるほどなという顔をした。そうか、どうりで、と一人呟き、真剣な顔で私に向き合う。
「ここは、どこかでありここであり、また全てである場所。ま、日向の住む場所と、ほんの少しばかり軸がずれた所だと思ってくれればいい」
「……はあ」
「或いは夢であり現実であり、またその狭間でもある。夢を見ている時にここに来る者もいる。逆に夢を見ている間だけここからいなくなる者もいる。そして、日向のように日常の隙間から迷い込む者もいる。実際はそういうのが一番多い」
 はっきり言って訳がわからない。
「……それで、私は帰れるんですか」
「たぶんな」
 たぶんって、そんな。
「今まで迷い込んだ人達は、しばらくするといなくなっていた。迷い込むには迷い込むなりの理由がある訳だから、それが解消されれば元に戻れるんじゃないかと俺は思っているが」
「理由……ですか」
「まあ、そんな明確に訳だの理由だのが転がってるなんて事はないだろうし、ここは時間の流れがちょっと他と違う。しばらくゆっくりしていけ」
 そう言って、あーちゃんは朗らかに笑う。
 他にどうしようか思いつくこともないので、とりあえずその言葉に従うことにする。


 思えば、ケンカの原因はくだらなかった。もう覚えてもいないけど。出会ってから、初めて何じゃないだろうか。あんな大ゲンカ。
 おかげで私はヤツの家を飛び出し、愛用のカメラを忘れたことに気付くまで、台風が近づく雨の中、三十分近く走っていた。追いかけてきてくれるぐらいしても良いのにと思ったけれど、実際追いかけてきてもらっても、自分がどんな行動に出るか考えるだけで滅入ったので考えるのをやめた。
 それから台風が通過するまで、私は風邪で寝込み、アイツとは会っていない。

 あーちゃんと別れたのは、初めて道が三叉路になった時のことだった。私が何気なく左の道を選ぼうとすると、右の方からあーちゃんを呼ぶ声が聞こえた。
 あーちゃんは、
「それじゃ、何か困ったことがあったら呼べよ」
 と言い残して右の道を進むうちに消えた。
 ぎょっとして追いかけようとすると、いつの間にか道自体が消えて、今までと同じ一本道になっていた。

 人生は、一人に一本ずつ与えられた道のようなものだ。
 誰かと共に歩く時、誰かの分だけ別れの数がある。

 私は仕方なく足を踏み出す。
 靴底から伝わる感触が、少し変わった気がした。
 スカートの裾と靴下とローファーを汚しながら、一本道をひたすら進む。さっきから、木が減っていくように感じるのは、たぶん気のせいじゃない。
 明るい日射しが道端の草を照らし、木が木陰を作る。
 カメラがないのが本当に悔しい。

 ふわりと優しい風が吹き抜けた。
 澄み切った空が青く青く広がり、流れる雲は形を変える。森は唐突に終わり、開けた草原が広がる。
 背の高い草がさわさわと風に揺れる。
 草原と言っても公園ぐらいの広さで、その中央にぽつんと白い東屋が佇んでいた。太陽に照らされ、白い屋根や柱がより輝きを増し、その様子はまるで静謐(せいひつ)な神話の中の光景に見えて、私は言葉を失いその場に立ちつくした。
 東屋の中には二人の人影が見えた。
 一人は美しい装飾が施された寝台にその身を横たえ、もう一人は眠るその人を覗き込むように、横に静かに座っていた。
「目覚めて下さい、眠り姫」
 凛とした声が赤い唇から漏れる。
 その声は切なく、悲哀と強い意志を併せ持っていた。
「あなたは誰?」
 寝台に横たわる人を見つめていた視線が私を捉える。見たこともないほどに整った顔。完璧、とはこういうことを言うのではないかなと思った。
「私は、吉野日向。あーちゃん……浅葱さんっていう妖精さんが言うには、ここに迷い込んできたんだって」
「ふうん?」
「あなたは?」
 赤い唇が弧を描く。
樹莱(じゅらい)
 静かな声。けれど何かをうかがっている。
 猫のようにしなやかな、美しい瞳。
「あなたは、ここで何をしているの?」
「待っているの。眠り姫が目覚めるのを」
 樹莱の瞳が眠るその人を見つめる。とても綺麗な瞳。
「その人は……」
 寝台には長く伸びた髪が広がり、色白で今にも折れてしまいそうな身体が、微動だにせず横たわっている。顔を覗き込むと、それは少年のようだった。
「この人は老いることもなく、もう一度死ぬこともなく、ただ伸びる髪を持て余し、いつまでも静かに眠り続ける」
 樹莱の赤い唇が震えているようにも見えたけれど、気のせいだったのかも知れない。
「それでも私は待っている」
 強い声だった。


「目覚めて下さい眠り姫」


 誰かを、
 強く強く思うこと。

 私の頬を涙が伝った。
 雫が足元ではじけると、世界が一面の光に包まれて、そこにはもう何も存在していなかった。
 ただ、どこからかあーちゃんの「よかったな」という声が聞こえた気がした。


 自動車がすぐ近くを通る音で我に返った。
 目の前には見馴れた道路が複雑に交差して、ありとあらゆる方向に伸びていく。五叉路とかいう凶悪な交差点の上、行き交う自動車を見下ろす歩道橋に私は立っていた。
 目指していた家とはまったくかけ離れた場所。でも私は知っている。自分の家以上に。覚えていようと、何度も何度も写真に撮ったから。
 私は顔を上げて、色の薄い青空を見上げたあと、歩道橋を一気に駆け下りた。
 この近くに住むアイツの家に押しかけてやるために。






 とりあえず、アイツにはあーちゃんと樹莱と眠り姫の話をしよう。その後でなら、ごめんなさいの一言もすんなり出てくるはずだから。




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